こんにちは。五十嵐です。

くしゃみの回数と共に春を感じる季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

私はというと、埃のかぶったゲームたちを引っ張り出して、専ら取り組んでいます。今は世界の人とペンキを塗りたくって陣地を広げ合う戦いに日々参戦しています。
しかし、私はゲームと名のつくものはあまり得意ではありません。自宅にあるゲームは戦闘ゲームでもRPGでもクリアしたものは一つもありません。最新作が販売されると噂のポケモンでは洞窟の中から何年も出れなくなり、どうぶつの森ではローンの返済に追われ、ラフレシアが咲き誇っています。
まぁ、仕方ありません。小学生の私にとって、1日20分と決められたゲーム時間の中で最大限のパフォーマンスを発揮していたと思います。どのゲームでも良いですが、いつか1つはクリアしてみたいです。

 

さて、先日ゼミの発表会があり、そのために様々な論文に目を通してみたのですが、中でも興味深いものがあったのでここに書きたいと思います。

「なぜ人は笑うのか。」
このことについて頭の良い人たちは様々な議論を重ねてきました。中でも1番古く提唱された理論にモリオール3つの理論というものがあります。①優越の理論②不一致理論③放出の理論、この3つが人が笑うという現象を説明しているらしいです。
①優越の理論とは主に笑う側に焦点を当てた論です。簡単に言うと”笑いは他人に対する優越感の表現であり、侮辱の一形態”とするものです。要するに人が失敗したり、おかしなことをしているのを見て笑うことです。
しかし、この論は普遍的ではなく、その対象の滑稽さからくる笑いや常識とのズレを確認した時の笑いなど優越の理論だけでは説明しきれない種類の笑いが生まれ派生したのが②③のような論です。モリオールは人が笑うという現象をこの3つに分類できると言いました。

さて、昨今のエンタメ界では[人を傷つけない笑い]というワードがトレンドとなり、世間に求められているのを感じます。実際に様々なコンテンツを見ていても昔と比べて暴力・性的な表現が嫌厭されるようになり、コンプライアンスを重視したものが求められています。また、お笑いシーンでも、ぺこぱのようなアンガーマネジメント的な考え方やサンドウィッチマンのような好感度の高い芸人の存在が求められているように感じます。

このような背景で私は、今求められている、人を傷つけない笑いって、モリオールが笑いは侮辱の一形態と提唱した優越の理論と相反しているのでは、という点に違和感を感じました。
過去から提唱され続ける論に真っ向から否定するような考え方が今時代に求められています。これこそ時代は変わる、ですね。
このような変化が起こる要因は様々あると思いますが、立ち止まって振り返ってみないと意外と変わりゆく狭間にいる私はなかなか気づけないみたいです。
そんな中で、しっかりと世間の音に耳を傾けながら、軽く時代に歯向かって生きていってみたいです。

そして、余談ですが、笑いは社交上の潤滑油のようなもので時に人と人を繋ぎ、人を助け、勇気を与えます。しかし、一歩使い方を間違えれば人を傷つける道具になります。決して”ユーモア”というもの履き違えることなく、正しく使いこなしていきたいと思う今日この頃です。

こんな感じでなにを研究計画として提出しようかと考えていたら、いろいろ盛り込みすぎて最終的によく分からなくなってしまいました。

もう一度考え直しです。

練習再開の見込みも立ち、日常に戻れることを嬉しく思います。最早、なにが日常なのか分かりませんが。
練習ができていない分、限られた時間の中ではありますが、試合に向けて準備していきたいと思います。

皆様も体にお気をつけてお過ごし下さい。