■ 慶應義塾柔道部「50年史」 三田柔友会前会長 昭和43年卒 金杉 浩
そろそろ三田柔友会としても「150年史」発行の準備に入っていると思います。部史は現在「50年史」、「100年史」の二巻があり、他に「創立100周年記念特集号」と「創立125年記念誌」があります。今回、「50年史」の概略を取り上げたのは、私が寒稽古などで古い先輩たちから道場の扁額のいわれやら昔の話を聞いて、柔道部のルーツを整理してみたいと思ったからです。
❶柔道部「50年史」概略
昭和8年に発行された「50年史」ですが、昭和5年二代目三田柔友会長に金沢冬三郎氏の時に柔道部史作成をインドから帰り時間のあった佐野甚之助氏に編集を指示したことからはじまる。
佐野氏は福澤先生の推薦によりインドに日本語と柔道の教師として赴任して、赴任先ではタゴール(インドの詩人)研究家として岡倉天心とも親しかったようである。
序文での柴田一能部長によると福澤先生の33回忌の年にこの部史が発行されたのは因縁を感じると書かれている。
佐野氏によると編集の資料は古い時代の「三田評論」と一時期発行されていた部報から得たようで、当時の「三田評論」は明治32年に発行されて41年の春まで続いたがこれは当時塾生の手によって編纂されており、その編集者のほとんどが柔道部の鎮鎮たる部員であったから我が部の記録に富んでいたのは当然であったとの事。また断片的資料は「福翁自伝」、「福澤諭吉伝」、「慶應義塾50年史」、「慶應義塾75年史」から得たと記されている。
以下概略を先に記す。
柔道部創立は1877年 明治10年。
明治9年 幼稚舎舎長和田義郎は福澤先生の旨を受け、関口流柔術を舎生に教えた。道場は18坪36畳敷で当時三田山上の幼稚舎に付属していた。
なお同15年には嘉納治五郎が柔術諸流派の技を統合整理して講道館柔道を創始している。
同20年には講道館に入門していた塾生有志十余名が幼稚舎の道場を借りて講道館柔道を始めた。
同22年には講道館四天王(西郷、横山、富田)のひとり山下義韶師範を迎えた。師範は身長5尺3寸約160㎝、体重18貫と記載されている。
同25年和田義郎先生逝去。
同年5月体育会創立、会長福澤捨次郎 当初7部。
29年幼稚舎の柔術を柔道に改める。この頃和田氏の後任の坂田舎長に福澤先生から『幼稚舎柔道場を訪れたが生徒が遅れてきたが何故だろう?幼稚舎は知育より体育が大事と思っているが』等と注意を促す書簡が年史にある。これには坂田舎長も参ったようで、以降、幼稚舎でも本格的に柔道が採用されたと記載されている。
同32年の第8回柔道大会には、福澤先生は病後にもかかわらず最後まで参観された。
部員200名に達した為、入部手続の制定を作成、礼節を重んじる柔道修業の本旨を明らかにした。
同33年には三田山上に嘉納治五郎師範を呼び演説館にて講道館柔道の目的、心得道徳上に及ぼす影響につき講話された。
同34年福澤先生逝去。
同35年早慶混合懇親試合、翌35年対早稲田大学柔道試合を行ない4人残し勝利。
同37年内田良平師範就任、綱町道場竣工、約100坪119畳
同38年当時十傑と言われた人々は吉武吉雄、三船久蔵、佐野甚之助、中野栄三郎などで同年の講道館秋季紅白試合には三田からは33名を派遣した。
同40年 義塾創立50周年
同41年柔道部後援会設立のちの三田柔友会(大正15年 青木徹二初代会長)
大正12年 関東大震災
昭和4年天覧試合。指定選手として阿部大六、英児兄弟、浅見浅一各五段、 大阪府代表として山川渉五段出場
❷柔道部18景
50年史は、各年史とは別に 佐野氏がこだわった18人の方による柔道部18景がある。
その中から鎌田榮吉氏、生田定之氏、山下義韶師範 、吉武吉雄氏の分を以下記載してみたい。
「和田氏の柔術」(鎌田榮吉氏…のちの塾長) 鎌田氏は当時既に塾の教師であったが、子供の頃に柔術を経験していて幼稚舎の道場にも顔を出していた。和田氏は関口流の達人。
当時強かった子供として福澤一太郎、福澤捨次郎、今泉秀太郎(今泉一瓢 錦絵、漫画家)、岩崎久彌(岩崎財閥三代目)等がいた。
明治14、15年頃、関口流始祖でありながら収入が無く困っていた関口柔心を呼ぶ。関口氏は10年くらい幼稚舎柔道に貢献。和田氏没後、鐘巻流の渋谷氏も2年くらい指導していたがそのうち講道館山下氏を師範に仰ぎ幼稚舎も柔道となった。柔道部の基礎が築かれ、道場も出来、学問に励み、身体を鍛え心身の健全を図る学生にとり大きな便宜が図られた訳である。その後人数も増え、明治37年綱町に道場が出来、柔道部も益々隆盛を加え、昭和の宮城での天覧試合には塾からは4人の選手を送り出したほどだがこれ以降は読者諸君の方が詳しいだろう。
「草創時代の塾柔道部」(生田定之氏) 生田氏は日銀国庫局長。氏は22年卒だがその2年前に自分たち何人かで幼稚舎道場で稽古をしていて、講道館から指導者を呼ぼうと山下さんを師範に迎えた。また活も出来ないのに締め落として慌てた事もあったと草創時代のエピソードを披露している。
「塾と私の関係」(山下義韶師範) 三田の居酒屋での街の無法者との乱闘事件。福澤先生に大目玉を受けた話。山下師範は米国鉄道王に招聘、内田良平師範は伊藤博文の朝鮮総督就任の参謀、後任は飯塚国三郎師範、それぞれが回顧しているが講道館と三田柔道部の緊密な関係を記している。師範と塾生の関係は今でも同じだが特にこの頃は深い関係だったようだ。
「明治33年以降の回顧」(吉武吉雄氏)
昭和の天覧試合に現われた三田柔道の真価 として浅見浅一、阿部大六、阿部英児、山川渉 。
試合を見ていた某陸軍大将曰く 『阿部と言うのは実に堂々たるものじゃ、品位があって古武士その者じゃ、実に上手で美しい!』老外交官曰く『あれは兄弟ぢゃと言うが、ご両親の人格が偲ばれる』この言葉は後輩として感動したと。
慶應柔道部では段の上位なものが偉いのでは断然ない! 強くて精神的に立派で即ち人物がしっかりしていないと尊重されぬ歴史があり、勝負のみ強くても下品で人物が出来ていなければ普通部の子供からも馬鹿にされる風潮があることを後進者の為に一言しておきたい。
❸三田道場の「武勇」の扁額といきさつ
綱町道場正面に「武勇」と書かれた額がある。これは道場に掲げる良いものは無いかと当時日本海軍の軍神と仰がれた東郷大将が凱旋し大変な歓迎ぶりであった。そこで大将の副官と親交のあった福澤捨次郎当時体育会長にお願いして書いて頂いたもの。出来上がったものを見ると右手上の方に馬鹿に片寄った書き方をしていた。しかし皆、書家らしくなく、如何にも武人然たるところが実に良いと一同喜んで、飯倉の経師屋に依頼して額としたが、経師屋はその絖を形よく切って今のように作り上げた。さあ大変!せっかくの武人然とした字配りの面白みが無くなったと半分以上値切った。
東郷大将は86歳まで生きたがこの書は59歳の頃に書かれたもの。
塾75周年記念での鎌田榮吉塾長による書
なお以下は道場に入った正面にある塾75周年記念での鎌田塾長による書で格調高いもので、いささか文語体で読み難いと思うが是非皆さんに熟読して欲しい。
鎌田氏は1857年和歌山藩士の家に生まれ明治7年に県より選抜されて入塾した。明治31年に塾長になり、25年間塾長を務めた。もちろん福澤諭吉の原型的な構想はあったとはいえ結果的に塾一貫教育制度が確立した。小額の寄付を基本とする慶應義塾維持会を創設して財政的苦境の脱出をはかり、医学部の創立、図書館、大講堂の建設その他の業績を残した。また交詢社をも幹事、理事長を務めて、慶應義塾と交詢社の中興の祖である事は意外と知られていない。
私はもっともっと鎌田氏に光を当てるべきと思っている。その鎌田氏が塾長の時に塾75周年記念式典の際に我が柔道部にかかる書を書いて頂いたことは後輩の我々は大いに喜びたい。
『我が柔道部は塾祖福澤先生の奨励に依り明治10年の春三田山上に開始せられ爾来漸次(ぜんじ)に発達したるものにして、実に我が国体育界の先駆をなせるなり、内に在りては和親一致塾風の涵養(かんよう)を謀り、外に向いては義塾精神の宣揚(せんよう)に勉め、専ら気品の泉源智徳の模範たらんことを期したり、乃ち(すなわち)先生の『先成獣身而後養人心』『心身之順是柔道』といえる二つの成語の趣旨に随て(したがって)経営し来 れるものなり、
斯の如き光輝ある歴史を有する我が柔道部の部員たるものは深く之を肝に銘し力を合わせて部の向上を図り流俗の外に立ち、独立自尊の塾風に依て思想の中正を保ち将来、国家の柱石、社会之儀表(ぎひょう)たらんことを心懸くべきなり』
昭和7年5月9日
慶應義塾創立75周年記念式当日