学校:大学(団体)
偶々、陸軍経理学校の同期生会に出席の為三年振りに上京した際、内海君より故岡崎君の事について思い出などかいてくれとのお話であったので生来の筆不精もかえりみずお受けした。何しろ内海君とは予科の頃から同級でしかも去る大東亜戦では彼は近歩四第一大隊附主計将校として馬来(マレー)半島を共に下りシンガポール作戦では共に重油燃えさかるジョホール水道を渡った仲で真に生死をともにした学友でしかも戦友でもある。彼からのたっての御依頼となればと拙文も省みず光輝ある塾柔道部史の片隅へでもと思ってペンを執った次第である。さて故岡崎君とは郷里福岡の中学修猷館時代から私より一年下であった。 修猷館は筑前黒田候の藩校で今日でも九州きっての名門校で戦前は柔道も強く、福岡日々の大会では、第一回大会より数回続いて優勝し、又その後、塾に来た藤川恒夫君が大将のときも優勝した事がある。なくなられた飯塚国三郎先生も大正の初め頃数年修猷館で教鞭をとられた事もあった。修猷館から塾の柔道部に学んだ先輩で箱田達麿、横田喜一郎、城崎栄之助などの諸氏。私の後にも岡崎俊祐、藤川恒夫、城島祐之助君が居り他の部にも沢山の卒業生を塾へ送っている。この様に地方の一中学校としては塾の柔道部と浅からぬ縁があったように思われる。故岡崎君もこの様な関係で彼の長兄岡崎茂助氏が早稲田大学柔道部の出身であるにもかかわらず塾を希望したのではないかと思われる。 故岡崎君は慶應義塾大学経済学部卒業の後、金沢冬三郎先輩の推薦により大日本製糖に入社し台湾の現業地にて勤務した。昭和十四年一月十日福岡歩兵第二十四連隊に入隊、検閲終了後当時ソ満東部国境方面に駐屯中の本隊に転属し東満の東寧に駐留し幹部候補生となり、陸軍歩兵少尉に任官と同時に歩兵第百二十四連隊の小隊長として南支方面に出征し幾多の作戦に参加、太平洋戦争勃発と共にボルネオ方面に出発し、ボルネオのミリー攻略の為尖兵小隊長として小発(陸軍の小型発動艇)に乗りミリー河を 航進撃中敵迫撃砲弾の直撃を受け散華した。 昭和十八年四月私が福岡に帰って彼の両親を訪ねた時、遺品として見せられたものは曲がった軍刀、双眼鏡の片半分のみでいかに悲壮なる戦死であったかを物語っていた。これが彼の短かったが華々しい一生であった。 中学時代の彼は、小学校六年の頃から通っていた玄洋社の道場明道館で稽古していた。中学でも放課後二三時間の稽古の後、夕食後また稽古着を担いで三キロメートル余りの道を歩いて明道館に行き、家に帰って寝るのは凡そ十時か十一頃であった。私も同じ道場に通っていたが五年生の二学期からは入学試験の為学校の練習も道場の稽古もやめるのだが、彼は毎日毎日稽古に稽古を重ねていた様だった。 毎日予習復習を怠っては到底学年中二三十番の成績は維持できない。彼は毎日の烈しい練習をしてしかも成績が良いので、何時勉強しているのか、不思議でならなかった。学業にしろ武道にしろよく頑張る人で人一倍負けず嫌いであった。時に彼が調子の悪い時など私がたてつづけに投げた時もあったが、涙を流して悔しがったこともあった。全く負けん気の強い人であった。その気性が彼の学業にあらわれたものと思う。 中学修猷館柔道部の目標は福日(福岡日々新聞)の大会である。初回以来連続優勝していたが、昭和になってから優勝出来ず昭和五年度は岡崎を初め他に二三人強いのがいるので今年こそと先輩等も張り切って毎日毎日若い先輩達が四五人道場に現れては発破をかけられ放課後の練習は猛烈をきわめた。全くへとへとになるまでやらされた。彼の体は大きい方ではなかった。身長一メートル六十二位、七十キロにはなってなかったと思う。されど、足が短く偏平足で畳に足の裏全部がすいついたように思えた。その体形は腰技には最適で、足腰も強くバネもあったので彼の跳腰は実に見事であった。 昭和五年六月戸畑にある明治専門学校(現在北九州工業大学)主催の大会には私が大将、彼が副将として出場し優勝した。その記念の写真は今も母校の道場に掲げてある。その年の福日大会は彼が大将、私が副将で出場したが準決勝戦にて鹿児島第一師範とあたり敗退した。 翌六年、七月の福日の大会には第一の優勝候補にあげられていたが優勝戦において東筑中学校と対戦し大将同士の決戦となった。二回目の延長戦の時、敵将岩崎に跳腰の裏をとられて優勝を失した。私はすでに塾に入っていて帰郷し観戦していたがその悔しさは今でも忘れない。翌日岡崎君は頭をつるつるにそって来たのを思い出す。 彼が塾に入塾してから初めて綱町道場に来たときである。私の横に坐って神妙な顔をしていた。「金ちゃん誰と稽古すればよかとな」と博多弁で言うので、最初に沖革作さんその次は中野先生に御願いするように言った。お二人と稽古のあと「大したことはなかなあ」と言うので、「そんなら後日稽古をお願いしてみろ、キリキリ舞させられるから」と言った。その時岡崎は二段、沖先輩三段ですぐ四段になられたと思う。 翌日又稽古を御願いしたところ彼はつくづく「ほんなこと立っているひまもなかった」と感に堪えない様子でした。中野先生や沖先輩の塾柔道の真髄にふれたのでしょう。中野先生は「やっぱり西の弟子だなあ」と私に申されました。 西先生とは我々中学の柔道の先生で当時は六段でした。対満州との試合の際は小谷澄之六段と対戦され、”つばめ返し”で見事福岡県に勝利をもたれされ、九州の第一人者でした。どちらかというとごつい柔道で私も塾に入学したヤワイ柔道、技を掛けると、もうそこにはいない柔道、掛けてもふわりといなされる柔道、その様な真の柔道には接した事はなかった。殊に塾の柔道は全くその本流の如きものであった。 彼は予科本一の間はよく道場にも通い、よく稽古した。或る冬、麻布の私の下宿から一緒に寒稽古に通った事がある。私は初の一週間は続けて通ったものだが二週目になると怠け心が出て朝起きるのがつらくよくさぼった。彼は二三回「もう時間ばい」と博多弁で声をかける。私はたぬき眠りをしていると、「しようがないなあ」とぶつぶつ言って寒い中を出掛けて行った。彼は二三回皆勤したように思う。又或る時一緒に銀座に出ても時間が来ると彼は三田に帰り私は映画など観て稽古をさぼっていても彼は綱町で稽古に励んだ。天分がある上稽古熱心で長足の進歩をした。 昭和八年の夏休み帰省の途中四日市市の大矢知君の処に二三泊したことがある。大矢知君の母校四日市中学に二人で稽古に行った時岡崎は、有段者の中学生を十人掛けで得意の左右の跳腰、大外刈りなどで数分の内に投げてしまった。 昭和九年春の講道館紅白試合にて三段の上の方で七人を抜いて抜群即日四段に昇段した。当時紅白の抜群は免許料の四円がいらない。彼は今日はもうかったから夕食をおごると言って三田通りの大和屋でカツライスを御馳走して呉れた。 彼の柔道試合の中でなんと言っても華々しいのは新築になったばかりの水道橋講道館における早慶対抗柔道試合であったと思う。大将として出場数人を降し、大将永光君と優勢の中に引き分けた試合である。その戦績は別に詳しく載ると思うのでそれにゆずるとしてその華々しい活躍をめでて時の柔友会会長金沢冬三郎先輩から見事な日本刀を贈られたのを何時も誉れとし軍刀に仕込んで戦地に行ったが今は遺品となってしまった。 彼は本一の終り頃より麻布升谷町にあった東光書院という処に寄宿した。毎朝便所掃除炊事或いは黙想正坐などあり漢籍の講義等昭和初期より自由思想への反撥気風に満ちた塾であった。時には鎌倉のお寺など参籠して自分自身を練えていた様である。 彼と最後に会ったのは昭和十六年六月頃かと思う。彼の部隊が作戦を終えて私の部隊と警備交替した南支広東省石竜(香港との国境近い処)であった。その交替期間が二三日あったので一夕支那料理店で広東料理を食べながら学生時代の事、軍隊に入ってからの事を朝まで語りあかした。その中で自分の軍刀を示しながら「これが金沢会長から戴いた刀ばい」と得意満面な彼の笑顔が今でも目に浮かぶ。 若し彼が今日その生を保っていたら、さぞ国家社会に貢献する人物に成長したであろう。 中学、予科、大学と同じように進み道場で共に汗を流した彼が若くして散華した事はかえすがえすもおしまれてならない。只々冥福を祈るのみ。 |