パリよりボンジュール MCJP館長便りNo.8

山下泰裕氏とフランスの3都市を巡回して

不動の人気を保つ柔道

日本武道館より一回り大きなベルシーのスポーツ会場がほぼ満員になり、選手の動きに応じて割れるような大歓声が頻繁にあがるのが毎年2月に開催されるフランス国際柔道大会の模様である。初めて観戦する日本の柔道関係者は一様にフランスにおける柔道の人気に感嘆し、かつ羨望の思いすら抱き、いったいこの国の柔道への揺るぎなき人気の秘訣はどこにあるのであろうか?と自問するのである。日本の美的様式がフランスに及ぼした様子に“ジャボニスム”と云う言葉を当てたのは1872年フランスの美術評論家フィリップ・ビュルティーとのことであるが、このような造語を口にする必要もなく、正に日本の文化そのものが受け入れられ日仏交流の大きな架け橋となったのが柔道であると言える。
フランス柔道連盟に登録し柔道の稽古に勤しむ数は56万人、サッカー、テニスに次ぐ第三位の位置づけであり、実際の柔道人口はおそらく連盟登録人数を大きく上回るものと推測される。この柔道を題材とする企画をフランス柔道連盟と我々の母体である国際交流基金の全面的協力を得て実施できたのは、パリ日本文化会館開設10周年事業の一つとして意義深いものであった。

三都市で大歓迎を受ける

フランス柔道連盟と一年がかりで計画を練り、この2月初め山下泰裕氏を招きマルセイユを皮切りにパリ、ボルドーの3都市で実技指導と講演会を開催した。結果として併せて2,700人程の参加者を得て大きな成果を納めた。私は本企画の共催責任者の一人として一週間にわたる全行程を同行し、日々山下氏の人柄とフランスにおける柔道の人気に接しながら学生時代に励んでいた柔道と改めて向かい会う貴重な機会を持った。成功の要因は既に述べたこの国における柔道の不動の人気とフランス柔道連盟の全国的な組織力、加えて山下氏の気負いの無い透き通る様な人間的魅力にある。初めて世界選手権を手中にしたのもパリで、フランスには30数回訪れている山下氏も「現役を引退して20年余りにもなるのに、私が居ることでこれだけの人が集まってくれたのは驚くばかりである」と述べておられる。因みにマルセイユでは南仏一帯をカバーするPACA地域柔道リーグの会長自らが采配を振り実技指導に子供たちを中心に約1,000人が参集、講演会には地方議会の本会議場が提供され議長自らが歓迎と開会の辞を述べた。パリでは柔道の指導者のみを対象として150人が仏柔道連盟本部の大道場に集結、山下氏と同行した1981年の中量級世界選手権覇者である中西氏(東海大学助教授)の指導を熱心に受けた。その夕刻、パリ日本文化会館での講演会で、フランス人として初めて世界選手権(1975年)を手中にし、山下氏とも数度対戦実績があるフランス柔道連盟のルージェ会長は「盟友山下氏を招きパリ日本文化会館と共に斯様な企画を実施することはこの上ない喜びである」と述べ、日仏親善の盛り上がりを見た。ボルドーではアキテーヌ地域柔道リーグの会長主導の下、何とマルセイユを上回る1,200人が参集、講演会の部はボルドー大学の大階段教室でボルドー大学学長自らが歓迎の辞を述べ、講演の後のカクテルも主催していただいた。

心に残る山下氏の言葉

優しいまなざしを欠かさぬ山下氏の表情からは、全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、加えてロサンジェルスオリンピック金メダル獲得等輝かしい実績を残し、国際試合では一度も負けを知らぬ不屈の柔道家との印象は微塵も受けない。しかしどの世界でも非凡な人間に共通するように、話を交わすに連れて意志の強さと明確な目的意識が接する人にオーラを感じさせるのである。親が腕白で手に負えない小学生であった山下少年を町道場に連れて行ったのが柔道との出会い、そして講演の中で自らが次のように語る中学時代の恩師の教えがその後の人生の基礎になったとのこと。
「柔道の覇者になるには余程努力せねばならぬ、だから誰にでも出来ることではない。しかし柔道だけではなく人生のチャンピオンになることを目指すべき、これは努力すれば誰にでも出来る」 真に示唆に富む言葉であることが聴き入る人々の表情からも伺えた。山下氏は中学時代の作文で将来オリンピックに出て日の丸を揚げたいと記したが、選手を辞めたら柔道の指導者になりたいと更に書き加えた由。
恩師の教え尊び、柔道の創設者嘉納治五郎の意図した柔道の教育的効用を岨喝して正に行動しているのが、母校東海大学教授の傍ら、全日本柔道連盟理事、国際柔道連盟教育コーチング理事、かつNPO法人柔道教育ソリダリティー理事長を勤める今の山下氏なのである。

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