1963年(昭和38年)大学を卒業して、その年に移民船ブラジル丸に乗り込んでブラジルに移民してから足掛け40年の歳月が流れました。その間、ニューヨークで1年間働いた時と、ソニーで15年間働かせてもらった時、3年間日本の勤務があった以外は、常にブラジルに居住し、働く人生でした。
自分がブラジルに流れ来た理由は、普通部の時、社会科の伊集院先生が ブラジルは将来の国で、私がもう少し若かったら絶対ブラジルに行っていたと言われた言葉が忘れられず、それ以来移民のことや、南米の大地を必死に調べているうちに、ブラジルに渡ってしまったと言う訳でした。
ブラジルには150万人と言われる世界最大の日系人社会があり、2008年には移民百周年が迎えらます。またその年は、期せずして慶応義塾が創立150年と言うの歴史の区切りを刻む年でもあります。
ブラジルの柔道は、古い移民の人達が農作業の傍ら、子供達に柔道を教えた所から始まり、日本人移民の間だけでなく、一緒に働くブラジル人の子供達にも柔道を教えたのが、この国の柔道の始まりでした。
日本のように教育に最大の重点が置かれる国民と違い、文盲率が20%近いとも言われるブラジルでは、柔道はスポーツとしてだけでなく、礼儀作法や、人間教育にまでに及ぶ貴重な日本の文化としてブラジルに根付いてきました。
最近では柔道の技術レベルは世界でも有数の実力柔道国になり、オリンピック、世界選手権の度にメダルをとる力がついてきました。力の柔道でなく、日本流の柔道がしっかり培われ、姿勢の良い、技を求めた良い柔道の育ったのは、移民の先人の指導の賜物と言えましょう。
ブラジル人たちは、ヨーロッパサーキットの大会から、帰ると必ずヨーロッパ柔道の歪んだ腕力柔道を批判し、我々こそ古い日本柔道を目指している唯一の国だとさえ 断言したがる程、常に日本に近くありたいと念願しています。
講道館設立百年記念の年には、世界に先駆け、ブラジルで講道館百年記念大会を催し、嘉納館長や、松本芳三9段、安部一郎9段を招待して柔道の先進国たらんと、日本の先生達にアッピールもしました。
最近は、実力だけでなく、柔道の精神や、その歴史、更には嘉納治五郎師範の教えを学びたいと言うブラジル人インテリ層が増え、我々が組織するブラジル講道館柔道有段者会では、姿 三四郎のポルトガル語翻訳を実現しようと言うことになり、活動を始めました。
この件に関しては、ワシントンの産経新聞編集委員、古森義久兄(柔道部38年卒)が、日本政府の要人を紹介して、応援してくれて非常に順調に進められて感謝しています。また植村健次郎兄も常時日本から支援してくれて、地球の反対側の遠隔地のものとしては有難い限りです。
森征一柔道部長は過って、サンパウロ大学の交換教授として塾の法学部から送られてこられましたが、それ以来、永年に亘ってブラジルの法曹界の方々と交流をし続け、日本ブラジルの司法研究の権威として非常に尊敬されている先生であることを皆さんにもお伝えいしておききたいと思います。
開発途上国であったブラジルは、最近はサッカー、バレーボール、テニスと言ったスポーツだけでなく、鉱工業でも世界ベストテンに入る規模にまで成長し、石油が自給自足から輸出国に移行する所までになりました。
輸出が堅調で、安定成長路線の基盤を固める段階に入ってきたとも言えましょう。
勿論、日本のような経済大国になるには、まだまだ時間が掛かるでしょうが、広い大地と、豊か過ぎるくらいの地下資源。
その大自然は、人類が必要とする酸素や水の世界への供給源として、これから日本にとって大切な国になる土壌があると見てもよいのではないでしょうか。
豊かな自然がもたらす人間の明るさと、心の広さを育んだブラジルは、世界中の移民を存分に受入れ、世界でもまれに見る人種差別の少ない国家になろうとしています。
福沢諭吉先生が咸臨丸でアメリカに行った如く、若い学生諸君が、アメリカからもう一歩足を伸ばして、新天地ブラジルの自然の空気を吸収し、夢のある新しい日本の力になることに役立てるよう、ブラジル支部長として微力を尽くしたいと思っています。
寒くなり始めた日本の皆様風邪を引かないようお気をつけ下さい。こちらはプールの側で日向ぼっこをしながら真夏の太陽の眩しさと対面する事に致します。
サンパウロ在住